眼は自らを見ず、刀は自らを割かず。

ヨガをしていると「マットの上では人と比べない」とか「マットの上は自分だけの世界」っていうような決まり文句のようなフレーズをよく聞くけどでも現実には、人は誰かと関わることでしか自分の価値を知ることはできない、そう思う私がいる。

誰かと比べてしまうことで自分を責めて、悲しくなり、あるいは誰かから受け止めがたい評価をされて苦しくなることもあるんだけれども、誰かに認められることで自分の価値を知り、誰かに褒められることで心の充足を得られるのもまた事実である。自分ひとりで満足して生きていくことなんか到底不可能なことだ。

刀は何かを斬って、はじめてその鋭さを知るように人は他人の表情とか言葉などの反応を得て、自らの姿を知る。


ではマットの上の「自分だけの世界」とは、いったい何を意味するのだろうか。その解釈は人の数だけあっていいし「せめてマットの上だけは」と、ヨガとこの世知辛い現実とを完全に区別して、癒されるのもいいだろう。
けれどヨガを生きるためのツールとして考えるならば、マットの上で掴んだ感覚を、せっかくなら現実の世界でも活かしていきたい。マットの上で、良いも悪いも、強いも弱いも、全部ひっくるめた本当の自分を見つけることもいいのでは、私はそう捉えている。
だから受けるクラスによっては、自分の実力のなさ、根性のなさなんかに、ひどく凹んで帰ることもあるし、地道に練習してきたアーサナが少しずつできるようになってきたことを褒められたりすると、それはまた大きな自信につながる。


ヨガのインストラクターは否が応でも誰かからの評価を受け、よい評価を得てこそ次のクラスが成り立つ。なので正直に言うと自分を良く見せようとしたり、自分のきれいな部分だけを誇示したくなるときもあったりする。でも認められたい、褒められたい、共感されたいだけの自分は、もはや本当の姿ではなくなっている。

それがまた、Facebookという媒体を通すと、時に醜いほどの嘘つきな姿をみせることがある。
キレイ事やら、頑張っていることやら、ヘルシーな食事をしたことなんかを大げさに書いてわざわざ「いいね」をもらいにいってしまういやらしい姿に嘘も程々にしてくれと、自分が阿呆臭くてちゃんちゃらおかしくなることがある。何をアピールしてるんだか。おそらく自分の実力がこの置かれた立場に追いついていっていないことへの焦りで、そうしてしまうのだろう。

実力不足な、根性のない、ヨガインストラクターらしからぬ品のなさで悲しい私だが、それでも偽りのない自分を晒けだして結びついた評価や「いいね」だけが、私の価値を教えてくれる本当の「いいね」なのだ。だからそもそもそんな私に「いいね」をする人なんて、実際はこの世でほんのわずかなはずだ。
それを謙虚に受け止めて、焦ることをやめてみる。結局嘘は最後に足下をすくわれる。しばらくは黙々と刀を研ぐことに専念しよう。そう心に決めた。

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